公会計と国ナビと桜内
国会、公会計、国ナビ、桜内とその周辺について
税金は国に対する毎年毎年の「出資金」である
日本国憲法のいう「幸福追求の権利」(生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする・13条)というのは、所有権や財産権を含んだものです。 それで、日本国民の幸福追求の権利を、納税者としてのお金の面で見ていって表現するとすれば、税金というのは国に対する毎年毎年の「出資金」であると考えられると思うのです。先程の例で言えば、「信託」の形式による資金拠出によって、法人格を取得したのと同じ効果を生じさせることができる。従って、それを「出資」として捉えても不思議ではないということです。
これは、税金を資本と見るか、収益とみるかによって公会計の勘定体系が全く違ってきますから、とても重要な論点なのです。
「税金は国民が政府に対して出している出資金である」と考えることが、公会計の基本になります。だからこそ、政府や行政はその使い道に慎重にならなければならないし、自分が出資した会社の経営者が、まともな経営をしているかどうかを気にするように、国民は関心を持たなければならないのです。
もちろん政府や行政という、国家や自治体の運営者(経営者)は財務諸表をある基準に従ってつくり開示しなければいけません。その中で大切なのは、例えば「社会保障給付を引き上げる」という決定をした場合、「どこから財源を引っ張って来て、どのように意思決定をし、どのように使ったのか」。そのプロセスをきちんと見せる必要があるわけです。それがすなわち、受託者責任の遂行のプロセスを明らかにすることです。これが「アカウンタビリティ(責任説明)」と言われるものです。
税金はひも付き、だから情報開示が必要なのです
「アカウント」というのは、日本語では「勘定」と訳されますが、責任範囲のことなんです。責任の範囲をどう分けるのかをはっきりさせるということ。国民はいわば強制的に出資させられている出資者ですから、その出資を受けている政府や行政は、衡平法上の物権としても大きな責任があります。
一般的に物権(国民が出資した原資)というのは、占有に基づいて所有者が決まると定義されています(民法239条)が、衡平法では、委託者ないし受益者の手元に権利が残るわけです。
日本の現行の信託法にある委託関係であれば、それは債権にすぎないので、実際にはその関係は切断されてしまう。
政府や行政の人間から見れば、国民からいただいた売上ような感じで受け取っているわけです。「税金は国民からもらったものであって、何をどのように使ったか、はっきりさせなきゃいけないなんて、とんでもない面倒なことだな」と思われてるのかもしれません。しかし、国家や自治体を運営していくために公会計は不可欠なものです。政府や行政の運営者たちは、公益のために、どのような資産づくりに投資し、どんな経費をどれくらい使っているのかをハッキリさせる必要があるのです。
アカウンタビリティ(情報公開)は「受託者責任」と結びついている
それでこの「アカウンタビリティ」という概念は、「責任」と非常に密接に結びついていると思います。複式簿記が出てきたのはやっぱりルネサンスの頃だと言われています。当時の航海というのは1回1回のプロジェクト形式だったんですね。「だれが出資をしたのか」をちゃんと帳簿につけておく必要があったわけです。そして船を擬人化して、入ったお金と出たお金をつけておくという形でできあがっていったみたいです。
当時の複式簿記はB/S、P/Lという観点から見て、今とまったく同じだったのです。当時も、リスクを負った人間にはちゃんとリターンを返すという意味で、儲けの半分は船乗りたちが持っていくことになっていったそうです。残りの半分を出資者で山分けしたらしい。
ルネサンスというのは、商人の時代でした。ビジネスマンは「利益」を追求します。利益というのは、他人の利益か自分の利益であって、みんなの利益というのはこれはまた別のものですが、とにかく「利益」を中心にして「自分と他人は全く別の存在なのだ」ということををはっきりと自覚するところからすべてが始まっているわけです。
共同体や他人との依存関係から個人が分離され、それが自由意志の獲得に結びついた時代あり、「自分と他人の責任を分ける」ということを、会計制度を通してルネサンス以降の人々は技術として取り入れてきたのではないかと思うのです。
財政は市場原理の外にある
会計というのは決算のプロセスです。だけど予算編成へのフィードバックを考えながらやらなければならないということがひとつと、特に行政の場合は、どこにどれだけ公共的な財とサービスを供給すべきかということが市場を見ながら決められないという問題があります。
国民は納税を通して、政府に経済資源の運用を委託しているわけです。政府は国民から預かった資源の受託者として管理運用する責任があります。国民は政府の顧客というよりは、「財産的資源を拠出する外部者かつ構成員であり、また受益者」として位置づけることができるでしょう。
それから「税金」については、
1)政府における納税者の持ち分資本
か、あるいは
2)政府が提供する財サービスに対する対価
であるかによって会計上の処理は変わってきます。
私は納税者の政府に対する出資であり持ち分にあたる資本である、と考えているのです。簡単に言えば、国民は毎年毎年、投資してもらっている株主であり、また同時にその公益を受けるお客さまでもあるのです。例えるなら「自動車メーカーに出資した株を持ち、そのメーカーのクルマに乗ってる人でもある」と言うことです。
ニュー・パブリック・マネジメント(NPM)は世代間の負担の公平化を考慮しているか
「国民を政府の顧客と見立てて、その満足度を最大化する対象とみる」という考え方もあります。最近、一種の流行でもあるNPMもその流れにあります。そうすると、現役世代などの「いままで世代」や「いまの世代」については、それで説明がつくのですが、将来の国民である「これからの世代」はそこに入ってこれなくなってしまう。
財政の大切な機能として、「時間軸上の資源配分を適正化することにより、世代間の負担を公平化する」ということがありますから、現在と将来をつなぐための資源をどこから調達してだれがどのように使うかは非常に大切な問題です。
ストック(蓄え)という概念がない世界であれば、今年入ってきた税金をどのように使うかという非常に簡単な話ですむわけですが、少なくとも現に負債と資産がある以上は、時間軸を考えないわけにはいきません。現在の財政赤字の累積は、将来世代に確実に影響を及ぼすレベルに積み上がっています。
さらには、現在のデフレを克服するために、あるいは自分たちの今の生活ためだけに、橋梁や高速道路、その他ハコモノなどの社会資産をどんどん造って、将来世代にこれ以上に新たな負担を増やし続けてしまうのは考えものです。
現役世代と将来世代の利益を考える視点
「財政民主主義」についてですが、憲法によれば、あらゆる財政政策上の判断は国会の議決に基づかなければならないことになっています(第7章)。公債発行限度額については、財政法財政総則によって、公債については国会の議決を経ることになっています。 しかしこうした制度の下では、選挙権を有する現役世代の利益に沿った決定はできるでしょうが、それでは将来世代、まだ生まれてきていない世代の利益は政策決定上、十分考慮されていると言えるでしょうか。
受益者というのは、将来世代も含みうるわけです。むしろ将来世代を含む概念でなければなりません。本来、それを考えるのは国民の側でなければならない。自分たちの子供や孫のことなんですから。あるいは全国民の代表者である国会議員でなければならないはずです。将来のことを考えられる国会議員が集まっていれば、国会でコントロールすることもできるのです。
しかし、そうなっていないところをみると、将来世代の利益がどこまで失われているかということを、数字で明らかにする必要があるのではないかと思うのです。今の状態ではそれがとても分かりにくい。
現役世代と将来世代の利益を考えるという点も、公会計のひとつのポイントである、と言えるのです。
私は「信託」の概念から、「税金は国民の出資金」と考えるところから出発して、財政の全体を一貫仕訳の複式簿記に整理しました。仕訳まで全部作って、公共部門向けの実用的な財務会計ソフトの開発に成功しました。
これに対して、(コンピューターごときで何が出来る?という)感情的に認めがたいという反応はありますけど、コンピューター・ソフトはひとつの道具であり、それをどう使うかは人間です。将来世代のことを考慮しながら、今を考える。それに役立つひとつの道具として、財務会計ソフトがあるのです。
「死なば諸共」と思っている旧日本人には通じにくい
確かに、「信託という概念を使うのはどうだろうか」という声がなかったわけではないんです。そう聞かれたら、「日本国憲法前文に載っている信託という表現に基づいているんですよ」と答えるわけです。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」と書いてあるでしょう。それでもまだ文句があるなら、アメリカ独立宣言とか、ジョン・ロックに文句を言ってください。(笑)
日本人のメンタリティ(精神性)として、「他人と同じ処遇であるのならば構わない、この先どうなろうと、下手をしたら死んでもいい」と思っているきらいがある。「死なば諸共。」という傾向があることは承知しています。であるならば、治世者たちだけで「死なば諸共。」をすればいい。しかし、国民までを巻き添えにするのはもってのほかです。
小泉内閣時代の特殊法人改革は、私も間近で見ていましたが、財政投融資制度という公的金融部門を改革して資本市場をどのように設計し直すかというのが本当の問題だったと思います。
銀行が機能不全に陥っていた当時は、より多くのポートフォリオ(組み合わせ)をつくらないとダメだと思いました。そうすると、政府系金融機関は民営化したほうがいいという結論しか出てこない。それで前職の旧大蔵省官僚時代、上司からは「お前、何考えてるんだ」ってずいぶん叱られた記憶があります。
「追求するべき価値」自体を創造する仕事
私が公会計の世界で取り組んできたのは「制度設計」の分野です。税をどう取り扱えばよいのか?という正義、それ自体の「基準」を作ってきたと思っています。
旧大蔵官僚当時の私は、与えられた基準の中で正義を追及していく立場だったのですが、いまは正義の基準を作っている、「追求するべき価値はこんなものではないだろうか?」ということに挑んでいるのです。
私が高校を出る時点で、日本の国債発行残高は168兆円でした。昭和50年以来、国債はずっと積み上がってきている。財政規律が失われたということもあるでしょうが、ミッション(任務の方向性や自分の使命)が失われたのではないかとも思います。
私たちが今後、取り組んでいかなければならないミッションは、今ある問題とともに将来世代を含めた、より価値のある日本をつくっていくことだと考えています。